私は過去に1年間、寺院生活を送っていたことがあります。当時は色々なことに疲れて心が乱れてしまっていたのですが、それを落ち着かせ自分を見つめ直す目的で始めました。しかしまさかそのときの教えが、未知のウイルスである新型コロナが現れてから活きるとは思いませんでした。
まず自粛生活と向き合っていく中で、我慢を我慢だと思わないことを意識していました。自分の希望や欲を抑えられている、或いは自粛を強いられていると思ってしまうと、ついつい誰かや何かのせいにしたくなってしまうからです。この自粛生活では、所謂自粛警察と呼ばれる他者への攻撃性が強い人たちの存在が浮き彫りになりました。溜まっているストレスや歪んだ正義感が、他者に向けられて発せられた結果でしょう。この事実自体は本当に悲しいものでしたが、同時にいかに自粛というものが過酷で、人に負担を与えているのかが判ったのです。私はやらされて自粛しているわけではないのだと、常に心に刻んで生活をしていました。
また仏教の教えを受けたこともあり、必ず人に優しく思いやった分は仏様が見てくれているだろうと考えるようにもしていました。医療関係者やどうしても外出しなければならない人、人と接しなければならない人はもっと大変なわけです。それなのに外出や行楽を規制されているだけの自分があれこれ悩んでいては申し訳ないと、全ての人を支援できなくてもせめて心の中では無事や安全を祈っておこうと思えるようになりました。自粛生活の期間だったからこそ、かつての寺院生活のように自分の本当の価値観や姿と向き合えたような気がしています。
新型コロナはまだまだ終息の様子を見せておらず、これからも長く付き合っていかなければならないのだろうというのは最初の緊急事態宣言のときから予想していました。これが今後はスタンダードになるのだと、その心の準備も自粛生活を乗り越えるために養っていった部分です。
今までの生活に比べると、確かに自粛生活は我慢の連続でした。ですがそれは試練でも何でもなく、あくまでみんなに平等に与えられた新たな日常なのだと、過去の寺院生活が教えてくれたのだと思います。もちろん早く新型コロナの脅威が去り、従来の様式の生活ができれば最高でしょうから、それを祈っていることは現在も変わりません。しかしながら恐ろしいウイルスが登場したからこそ、何気ない毎日のちょっとした楽しさも有難く感じられるようになりましたし、この感情はこれからも大切にしたいです。