京都には歴史ある寺社を数多く目にすることができます。市中散策するだけでも日本の歴史を肌で感じることができるのは、まさに京都市観光の醍醐味ですが仏教を信仰していて似かよった名称なのに、独立して建立されていたりすると、その理由などが気になることはないでしょうか。そのような代表例のひとつに本願寺を指摘することができます。具体的には浄土真宗の西本願寺派(正式名:本願寺派)と東本願寺派(正式名:真宗大谷派)の違いです。予備知識がないと類似したので関係性はありそうだけれど、違いはよくわからないで拝観しているのかもしれません。そこで日本の仏教を代表する宗派の一つ、浄土真宗の本願寺派と真宗大谷派、歴史とその違い・現在に至るまで分岐したままの理由などについて徹底解説して参りましょう。
最初に確認しておくべきなのは、いずれの宗派も開祖は親鸞聖人でその聖廟から発展したのが本願寺ということです。元来は同じ宗派であるため、類似している部分はあるもののやはり違いがあります。まず形式的な側面から着目すると、総本山の違いです。本願寺派の総本山は西本願寺で、真宗大谷派の総本山は東本願寺となります。寺自体が別に構えるというほかに、御本尊の外見が異なります。本願寺派では阿弥陀如来仏像の後光には、「船後光」という意匠がありますが、真宗大谷派の御本尊には船後光はありません。
仏壇や仏具にも明らかな違いを見て取ることができ、本願寺派では仏壇の柱を金箔で仕上げているのに引き換え、真宗大谷派ではうるしの黒塗りで仕上げています。これに対して仏具では意匠が逆になり本願寺派では黒がカラーリングのベースになりものの、真宗大谷派では、金色のものを使用します。
このように西本願寺と東本願寺とでは違いがあるわけですが、その起源は織田信長の石山本願寺攻めにたどることができます。10年にわたる籠城戦を繰り広げた石山本願寺は浄土真宗の牙城でした。織田信長との和議をどのように進めるかを巡って、当時の石山本願寺のトップ3のなかで深刻な路線対立が表面化します。11代宗主顕如(けんにょ)と二男の准如(じゅんにょ)は和議を許諾しますが、長男の教如(きょうにょ)は徹底抗戦を主張、ついには親子断絶の事態に。
そのご豊臣秀吉が実権を獲得すると、1591年顕如は土地の寄進を受け、現在の西本願寺を建立しました。他方で信長死後断絶を解かれていた教如は石山合戦当時の主戦派を重用することで深刻な内部対立を引き起こします。その後徳川家康の世になると、教如は家康の後押しもあり復権し真宗大谷派を立ち上げ、東本願寺を建立し今日に至るわけです。